司法まで劇場化されていく社会

http://www.asahi.com/national/update/0219/OSK200902190096.html

これは本当にまずいと思います。
絶対にやってはいけないことが今行われてしまっているように思います。

断っておきますが、加害者の妻を責めた被害者の言動がひどいとか、そういった批判ではありません。なぜなら被害者感情というものはそういうものだからです。彼らが受けた痛みは彼らにしかわかりません。妻は無関係だとわかっていても、関係者に見えてしまうことはあると思います。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、じゃないですけど、そもそも被害を受けた人すべてに理性的な言動を100パー求めることが不可能であれば、そういったこともあるかもしれない、と考慮に入れるべきであると思います。自分は幸いにもその立場に立たされたことはないので分かりませんが。

ただでさえ現在の状況下、加害者家族というだけで相当に叩かれている用に思います。最近のメディア報道なんかは被害者感情を煽り立てて同情を誘う、みたいなメソッドが多すぎるように思います。加害者自宅に報道陣が押しかけた挙句、「すいません、すいません」と母親が泣いて謝る図なんかがときどきありますが、あの画は自分は大嫌いです。これはこれで別の問題ですが、とにかく社会的には十分すぎるほど(というか本来無用の)制裁を受けさせられているのが現在の状況な気がします。

そういった流れが司法の場にまで影響してしまった、というのが今回の流れなんですけど、この被害者の声が広がっていく風潮はものすごくまずいような気がします。

なぜかというと、「遺族がいない被害者の軽視につながる」気がするから。

被害者/遺族が声を上げることが社会的に影響を持つのであれば、それらができない人たちの被害が相対的に低くなっていくように思います。

たとえば身寄りのない老人とか、ホームレスとか、虐待される幼児とか。仮に殺されてしまった場合、残念ながらテレビの前で「犯人のことが許せない」といってくれる人はいるんでしょうか。証言台の前で声を上げてくれる人はいるんでしょうか。それが仮に判決に影響するのであれば、それは被害者の多寡によって量刑が決まるということにならないんでしょうか。裁判官だって人間ですし、被害者の生々しい話とかを聞かされれば心動かされることもあるでしょう。それが判決に影響しないとは確実に言い切れません。

何か、いまの風潮の根底にあるのが「自分は加害者の側にまわることはない」みたいな意識だと思うんですね。そういった感覚があるから被害者劇場に共感してしまう。自分が加害者になる可能性をハナから考えていないというか。自分はまっとうに生きてる、間違ったことはしないからそいつらのことは考える必要もない。自業自得論といってもいいのかもしれませんけど、それって間違っていると思います。

当たり前だと思うんですけど、加害者になってしまったヒトだって根っからの悪人じゃないと思うんですよ。3日前までは普通に暮らしていたのに今では犯罪者扱いみたいな。境界線なんてものは存在しない気がします。自分自身ですらそう思うのに、家族とかにいたっては根本的には他人です。自分の子供が新聞に載ることはない、って盲信している親って結構多いように思います。「ウチの子に限って!」みたいな。

どうにもこうにも、この社会が進んでいく方向はまずいのでは?と思います。

なんかとりとめがなさすぎですが、このへんで。